第17話
免疫・感染症・ワクチン
『翔ちゃん先生の一言コラム(シーズン2)』を始めます。シーズン2は「犬のワクチンの話」です。
犬のワクチンにはどんなものがあり、どのように使われ、どんな点に注意すべきかなどを解説します。
いきなり「ワクチンの話」となるとチンプンカンプンかもしれません。
そこで、その基礎となる「やさしい免疫の話」、「わかる感染症の話」をやって、その後「ワクチンの話」をすることにしました。
「免疫の話」は深く追求するととても複雑怪奇になります。
いや、筆者の理解できる範囲を超えてしまいます。なるべく簡潔に、かつ平易に書きます。
例外的な話、少し難しくなる話は、枝葉をはらってその幹だけを書きます。
ゆえに一面的な表現しか用いない場合もあります。
本当の専門家が読めば首をかしげる内容も含まれるかもしれませんが、お許しください。
「感染症の話」では犬に見られる感染症を解説します。
感染症とは病原体(細菌・ウイルスなど)が体内に侵入・増殖して起こる病気です。
そしてワクチンでどんな感染症を予防できるのかも知ってもらいます。
ではでは、はじまり…はじまり。
外敵から身を守る“監視システム”とは何でしょう。
それは危険を察知する能力、つまり五感です。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚で外敵を監視します。
人間も同様ですが、犬も目で見て、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、触って、味わって、つまり五感を駆使して外の世界を監視しています。
犬が生き延びていくためにとても大切なことです。
では、五感では感じとれない外敵、つまり病原体に対する監視システムはどうなっているのでしょう。
病気の元となるウイルス、細菌などが体内に侵入してきたことをいち早く察知し、それを排除するシステムは何でしょう。それが「免疫系」です。
つまり犬は五感を駆使して外の世界を監視し、免疫系で内なる世界を監視し、かつ病原体の排除を行っているのです。免疫を英語ではImmunityといいますが、Immunityとはもともとは「税金、あるいは使役を免れる」という意味が語源です。一度かかった病気には抵抗性ができて、二度目はかからないか、あるいは軽くて済んでしまう。つまり疫=病気を免れるから「免疫」なのです。
体内を監視する免疫系のうち、自然に備わったもの、 つまりどの犬でも持っているような免疫を「自然免疫」と言います。 一方、自分自身で獲得したものを「獲得免疫」といいます。
獲得免疫はさらに二つに分けることができます。
病原体の侵入に対抗し、あるいはワクチン注射に反応して、その個体自身が作り出す「能動免疫」と、母犬から子犬に伝えられる「受動免疫」です。母犬から子犬に伝えられる免疫であることから、受動免疫を「母子免疫」という場合もあります。
犬は自然に授かった抵抗性を持っています。
外界から病原微生物がやってきても、その抵抗性で対抗して病気にならない場合があるのです。この自然に授かった抵抗性が「自然免疫」です。病原微生物にとっては第一の関門になります。
例えば、唾液、涙の中には細菌をやっつけてしまう物質(抗菌物質)があります。
胃の中の胃酸、胆嚢の中の胆汁も病原微生物の侵入を防ぐ働きがあります。口や眼から侵入して来た細菌にはこれで対抗することができます。これらは「生理化学的防壁」と呼ばれています。
キズのない皮膚は病原微生物をはねのけることができます。
でも、キズがあると傷口から病原微生物が体内に侵入してしまいます。
皮膚病の犬の患部に細菌が侵入すると、じくじくしていやな臭いがするのを経験されたことがあると思います。
これは皮膚が正常な状態ではないので細菌が取り付いて悪さをしているのです。
正常な皮膚であれば悪い細菌の取り付きはありません。
これらを「物理的防壁」といいます。
体内に侵入する前に病原微生物を阻止できればよいのですが、不幸にも体内に入り込んでしまうことがあります。体内に入った病原微生物には、それらを食べてしまう細胞系、すなわち「食細胞系」が活躍して排除していきます。
整理化学的・物理的防壁を通過して体内に侵入した病原微生物には食細胞が働くのです。
自然免疫は犬にとって病気にならないための大切な第一段階の抵抗性です。
自然免疫はどんな敵にも働きます。特定の病原微生物にだけ働くわけではありません。
「非特異免疫」といいます。でもそれほど強力な免疫ではありません。
特定の病原微生物に対して「特異的」に働く強力な抵抗性が次にお話する能動免疫(獲得免疫)です。
免疫とは自分と他人を区別することから始まります。これを「自己と非自己の認識」といいます。なんだかとっても哲学的な話になってきましたね。
自分ではない異物(病原微生物、腫瘍、老廃物、他人の組織や細胞など)を排除する機構、それが免疫系です。自己と非自己を区別する目印があります(組織適合抗原といいます)。
これを見つけ、非自己であると判断すれば、免疫系が攻撃対象としてしまいます。
当然ながら免疫系は自己を攻撃することはありません。つまり自己に対しては極めて寛容な態度を示します。これを難しい言葉でいえば「自己免疫寛容」といいます。
逆に非自己を自己と勘違いすることも「免疫寛容」の一種です。
勘違いからの八方美人です。自分で自分を攻撃してしまう自己免疫病という病気もあります。免疫寛容は少し難しいので解説はこれくらいにします。“寛容な態度”と聞くと徳のある人物が思い浮かびます。免疫系は自己に対してはとても徳があるんですね。でも、自分だけに優しいと考えれば、単なる自己中心的なナルシストとも言えます。
母犬から授かる免疫があります。母子免疫といいます。
病気になって、あるいはワクチンを注射されて自分自身で獲得する免疫を能動免疫といいますが、母犬からもらう免疫も獲得免疫の一種で「受動免疫」といいます。
免疫の世界でもどうも父親の影が薄いようです。母と子の強い絆を感じてしまいます。
いろんな専門用語が出てきて混乱しますね、「自然に備わった免疫と自分自身で作る免疫のほかに、親からもらう免疫もあるのか」くらいにご理解してください。
母犬からの免疫は主として「初乳(出産後、短期間だけ分泌される特別なお乳)」を介して子犬に与えられます。初乳の中にはいろんな病原微生物に対する抵抗性の素が入っています。初乳を飲んだ子犬は、腸からこの抵抗性の素を吸収し、子犬自身の抵抗性にしてしまいます。
初乳を腸から吸収して自身の抵抗性にするためには、生まれて48時間以内に初乳を飲まなければなりません。初乳を飲めなかった子犬は、不幸なことに抵抗性を母犬からもらうことができず、病原微生物に対して無防備の状態となります。
子犬の免疫系がしっかりし、自分自身で強い免疫をつくることができるのは生後3週を超えてからとされています。
まだまだ抵抗力のない子犬にとって、母犬から授かる母子免疫は極めて重要です。
ただし、母子免疫で得た抵抗性が子犬に残っていると、子犬に接種したワクチンの効き目が不十分になる場合もあります。
母親から子供に母子免疫が移行する時期は動物種によって異なります。
兎類、霊長類では、全て、あるいは大部分が出生前に子供に移行します。
犬では数%が出生前の子宮内で移行し、大部分は初乳を介して子犬に移行します。
牛、馬、豚などでは母子免疫の全てが出生後の初乳によって移行します。
なお、分娩後の一定期間分泌される特別なお乳を初乳、通常のお乳を常乳といいます。
皆さんが飲まれている牛乳は常乳です。
母子免疫の抵抗性の素は「抗体」と呼ばれるタンパク質です。それが母犬から子犬に移行してくるので、特に「移行抗体」と呼ばれています。抗体については別の機会に詳しくお話します。
口から入った角切りビーフ、ササミジャーキーなどのタンパク質は、消化管のタンパク分解酵素によって細かく分解され、つまり消化され、腸で吸収されて血となり肉となります。このようにタンパク質は消化されて小さな分子にならないと腸から直接吸収することはできないのです。
では、タンパク質である初乳中の移行抗体が、胃で分解されずに腸に至り、さらにそれをタンパク質のまま体内に取り込む機構は何でしょう。初乳中にはタンパク分解酵素による消化を阻害する物質があります。特に胃における分解を阻害します。初乳中の移行抗体は胃で分解されずにタンパク質のまま子犬の腸へ至るのです。
さらにどういう訳か子犬の腸は大きな分子のタンパク質をそのまま吸収できる能力があります。母犬からの移行抗体をそのままの形で吸収し自分自身の抵抗性にできるのです。子犬のこのような特別な能力は生後48時間以降には急速に低下します。だから生後48時間以内に初乳を飲ませることが重要になるのです。
母子免疫以外にも受動免疫があります。例えば毒蛇にかまれると抗毒素血清による治療を受けます。抗毒素血清の中には毒消しの素(これも抗体です)が入っていまして、体内に入った蛇毒を無毒化します。蛇毒も無毒化できれば怖くはありません。毒が体中に回らないうちに無毒化できればよいのです。
ただ、体中に毒が回ってしまえば毒消しも間に合わなくなります。時間との勝負です。抗毒素血清を貰い受けての抵抗性ですので、これも受動免疫の一種です。
免疫の概要はおわかりになりましたでしょうか。
少々難しかったかもしれません。ま、脳トレーニングと思いながら整理してみてください。
『病気にかかったり、ワクチンを注射されたりすると、犬の体内の監視機構(つまり免疫系)が刺激され、特異的で強力な能動免疫ができる。
この能動免疫ができると、同じ病原微生物が侵入して来てもすばやく排除してしまう。
ゆえに病気になることはない』と、理解できれば十分です。
自然免疫、母子免疫も重要ではありますが、能動免疫と対比した言葉とご理解ください。
さてさて、ワクチン屋(ワクチン開発に従事する人々)にとって最も重要なのは能動免疫です。 ワクチンは犬に能動免疫を付与するために注射します。 安全で、強力で、そして長い間続く能動免疫をいかに与えられるかがワクチン屋の腕の見せどころです。
ワクチンを注射しても、病気にもならずに能動免疫が誘導できる性質がワクチンの「安全性」です。
そしてワクチンの効き目を「有効性」といいます。
安全性と有効性は少々裏腹の関係にあります。つまり安全性を深く追求したワクチンは有効性がもう一歩となることがありますし(お水のようなワクチン)、有効性を追求し過ぎますと安全性がおろそかになることがあります(ピリ辛ワクチン)。
安全性と有効性のバランスをいかに上手にとるかがワクチン屋にとって最重要事項です。
ワクチンによる能動免疫ができあがるためには少々時間を要します。
その点、自然免疫はそれこそ自然に備わった免疫力ですので準備期間は要りません。
母子免疫で得た抵抗性もすぐに効き目をあらわしてくれます。
子犬の免疫系がしっかりするまでは母子免疫で抵抗性を与えることもワクチン屋は考えます。つまり母犬にワクチンを注射して能動免疫を与えておき、 母犬から子犬に初乳を介してその免疫を移行させるのです。
子犬は病気に弱いのが一般的です。
弱い時期に母犬からの恩恵を受けて育つようにしてあげるのです。
免疫とは自分と他人を区別することから始まります。これを「自己と非自己の認識」といいます。なんだかとっても哲学的な話になってきましたね。
自分ではない異物(病原微生物、腫瘍、老廃物、他人の組織や細胞など)を排除する機構、それが免疫系です。自己と非自己を区別する目印があります(組織適合抗原といいます)。これを見つけ、非自己であると判断すれば、免疫系が攻撃対象としてしまいます。
当然ながら免疫系は自己を攻撃することはありません。つまり自己に対しては極めて寛容な態度を示します。これを難しい言葉でいえば「自己免疫寛容」といいます。逆に非自己を自己と勘違いすることも「免疫寛容」の一種です。勘違いからの八方美人です。自分で自分を攻撃してしまう自己免疫病という病気もあります。免疫寛容は少し難しいので解説はこれくらいにします。
“寛容な態度”と聞くと徳のある人物が思い浮かびます。免疫系は自己に対してはとても徳があるんですね。でも、自分だけに優しいと考えれば、単なる自己中心的なナルシストとも言えます。
今回は免疫の本体についての話です。
さらに難解になります。お許しください。
病気から回復後、あるいはその病気のワクチンを注射した後に、犬に抵抗性ができます。
“その病気”に対してだけの抵抗性です。
他の病気に対しても抵抗性ができるわけではありません。
既にお話してありますが、これを免疫の特異性といいます。
さて、この抵抗性の本体は何でしょう。
抵抗性の本体は「抗体」とよばれるタンパク質と白血球の一種である「リンパ球」です。抗体による免疫を「液性免疫」といい、リンパ球による免疫を「細胞性免疫」といいます。
リンパ球には「Tリンパ球」と「Bリンパ球」があります。
Tリンパ球の一部が「殺し屋細胞(キラー細胞)」に変身して細胞性免疫を担います。
Bリンパ球はTリンパ球の指示により、「抗体産生細胞(プラズマ細胞)」に変身して抗体を作り、その抗体が液性免疫を担います。
きわめて性格の悪い“翔ちゃん”ウイルスが体内に侵入した場合を想定してみましょう。
自然免疫の関門をくぐりぬけると、“翔ちゃん”ウイルスはまず自分が増殖できる場所まで移動します。
“翔ちゃん”ウイルスはお気に入りの細胞の中でどんどんと子孫を作ります。
子孫ウイルスは、細胞の外に出て次の細胞に取り付き、さらにその細胞の中で子孫ウイルスを作ります。鼠算式にウイルスが増えていくわけです。
ウイルスが増殖していると熱が出ますし、元気・食欲もなくなります。
また、増殖場所が呼吸器系だと、鼻水、咳などの症状がみられますし、消化器系であれば嘔吐、下痢などが見られます。
これら侵入者、あるいはその子孫の暴挙を許すことはできません。
犬の体内を監視する免疫系は、“翔ちゃん”ウイルスの侵入・増殖・感染に気付き、これに対して防衛策をとろうとします。
まずはいろんな異物を食べてしまう「食細胞」が“翔ちゃん”ウイルスを食べることから免疫系が動き始めます。
食細胞の中でどんなウイルスであるのかの情報収集が行われます。
食細胞はこの情報を司令官Tリンパ球に伝えます。
司令官Tリンパ球は防衛軍を総動員して“翔ちゃん”ウイルスを排除しようとします。
司令官の号令で、Tリンパ球の一部はキラー細胞に、Bリンパ球の一部はプラズマ細胞となり抗体を作ります。
細胞内に潜んでいるウイルスを駆逐するのがキラー細胞です。
細胞の外、あるいは細胞の表面にいるウイルスを攻撃するのが抗体です。
なお、免疫を誘導する物質を「抗原」といいます。
体の中の免疫系はダイナミックです。
種々の共同作業をやりながら、細胞性免疫と液性免疫で病原微生物と戦うのです。
敵もさるもので、病原微生物も生き延びるためにすばやく変化し、免疫系の攻撃を回避しようとします。これを病原微生物の変異といいます。鳥インフルエンザが大きな話題になっていますが、これもウイルスが変異して人間を襲う力を獲得することが脅威なのです。
その変異に対してあらかじめ対応できるような抗体を全て用意できるのでしょうか。生体がもっている抗体を作る遺伝子の数は限られています。限られた遺伝子でどうやって多種類の抗体を作るのかが免疫学の難問でした。
しかし、「遺伝子の再構成(並び替え)により、無数に存在する病原微生物に対抗できるように抗体を準備できる」ということを利根川進博士らが明らかにされました。免疫学の難問を分子生物学的見地からみごとに解決されたのです。博士はこの遺伝子の再構成、抗体の多様性獲得の研究業績により、ノーベル賞を受賞されました。
リンパ球の育ち方(分化・成熟)についてのよもやま話です。
骨髄に幹細胞(かんさいぼう)という細胞があります。赤血球、白血球の元となる赤ちゃん細胞です。就学期になった幹細胞の一部は胸腺学校へ入学し、一部はファブリキウス嚢相当器官学校へ入学します。ファブリキウス嚢というのは鳥類の直腸の背部にある器官で、鳥類の免疫中枢器官の一つです。哺乳動物ではこれに相当する器官がよくわかっていません。それでファブリキウス嚢相当器官という曖昧な表現にしてあります。
胸腺学校に入学した幹細胞は厳しい教育を受け、卒業するとTリンパ球になります。胸腺のことを英語でThymusといいますのでその頭文字をとってTリンパ球です。ファブリキウス嚢担当器官学校に入学した幹細胞も別の厳しい教育を受け、Bリンパ球になります。ファブリキウス嚢(Bursa of Fabricius)、または骨髄(Bone marrow)の頭文字をとってBリンパ球です。
教育課程で、自己と反応する“ならず者”、どんなものにも全く反応しない“なまけ者”は、落第生として放校処分となります(死滅します)。教育を受けたリンパ球が自己と反応せず、非自己だけと反応するのは教育の賜物です。リンパ球の成長に“ゆとり教育”なんてありません。
各学校を卒業したリンパ球の就職口は、脾臓、リンパ節などです。そこに移動して定着し、内なる監視活動業務に従事します。血液、リンパ液中に出張しての監視業務も行います。